+サンタ・サングレ+

「いつもニコニコしちゃって気持ち悪いの。それ、心から笑ってないでしょ?」
 テニス部の一年の天才ルーキーくんに出し抜けにそう言われた。僕はそれでも笑う。
「そんな風に見える?」
「そうとしか見えない」
「理由があるんだ」
「なんすかその理由って」
「秘密」
 僕は笑って答える。それを聞いた生意気なスーパールーキーくんは眉を潜める。
「いったいなんすか?キモチワリーの!!」

 

 僕は君のために笑う。もう微笑みは、痛みとともに、僕の顔に張り付いた。

 

 幼稚園の誰もいないトイレで、小さなオトコノコがしゃがみこんで泣いていた。何もおかしいことじゃない。
僕の姿に気付いた小さなオトコノコは、慌てて涙を拭った。怯えたような目をして。
僕はいつも弟にするように、僕もしゃがみこんで目線を合わせてにっこり笑って、そっと小さなオトコノコの頭を撫でた。そのオトコノコの目から、また大きな涙が零れる。僕は黙っていつまでもその小さな頭を撫でた。
「誰にも言わないから、大丈夫」
僕がそういうと、小さなオトコノコは本当にほっとした顔をした。

 手塚はとても難しい子供だった。

 人間は、愛情から来る言葉からは逆らえない。
手塚を見ているとそう思う。手塚の周りには善人しかいない。悪い人は一人もいない。
とても古い価値観を強く持ったお祖父さんに、強く影響を受け、自分の言葉を発することが出来ないお父さんと、強い男の子にと律する手塚のお祖父さんである義父の手前、まだちっちゃな子供だった手塚を抱きしめることも出来なかったお母さんも。皆、手塚のことを思っていた。手塚に良かれと思っていた。
彼はそして、とても小さな頃から、嫌だということも、泣くことも出来ず、強い男の子で在り続け、そしてある部分で徹底的に損なわれてしまった。
彼が愛されたくて努力をし、大人達の期待に答えれば答えるほど、彼は孤独になって行った。

 手塚のお祖父さんは、自分が子供の頃欲しかったものを全て手塚に与えた。地階が物置になっていて、一階と二階が書庫になっている離れの屋根裏部屋。地階には沢山の不要な物が放り込まれ、手塚のお母さんがお嫁に来た時持ってきたピアノと、手塚のお父さんが若い頃に集めた古いレコードプレーヤーやジャズやクラッシックのレコードコレクションがあった。一階や二階の書斎には沢山本があったけれど、子供用の本がなかった。手塚のお祖父さんは、手塚が小学生に上がると同時に、その離れをまるまる自由に使えるようにと、手塚に与えた。
倉庫には、サッカーのボールも野球のグローブもテニスのラケットもあった。手塚が選んだものはテニスのラケットだった。お祖父さんは文武両道をモットーとしていたので、スポーツをやりたいと言えば、お祖父さんが喜ぶと分かっていたからだ。一人っ子の手塚は、委員長やリーダーとして誰かに命令を与えるのは上手だが、集団で役割が別れて闘う集団競技が苦手だった。
ピアノに興味があったが、ピアノを鳴らすと男らしくないと叱られた。お父さんの古いオーディオセットのレコード集に隠されるように混ざっていたロックやポップスのレコードを(例えば、ビートルズやセックスピストルズのレコードを)、手塚は叱られないように小さな音で聞いた。

 確かに屋根裏部屋は素敵だった。ガラクタの詰まれた倉庫も、古い本が出すかび臭い匂いのする書斎も、とても魅力的だった。
でも手塚は、そういう環境でたった一人にされて育つにはあらゆる意味で繊細過ぎたし、早すぎた。手塚のお祖父さんは親離れを早ければ早いほど良いと思っていた。でも、人間は、ある一定の時期までは惜しみない疑うことのない愛情が必要なものなのだ。
小学生に上がったばかりの手塚は、夜一人ではその古い物が持っている特有の匂いがする屋根裏部屋では上手く眠ることができなかった。
食事の短い時間だけ、家族と過ごし、お祖父さんの「男の子は沢山食べた方が良い」という言葉通りに詰め込めるだけ食事を胃に詰め込んだ後、手塚は一人の離れに戻ってそれらを全て吐いた。食事の時間も静かだった。手塚のお祖父さんは男の子は寡黙が一番だと信じていた。

 手塚は自分の感情を殺し、意思を殺し、そしてある部分で、救いようがないほどに損なわれて行ってしまったのだ。

 僕は家を抜け出して、手塚の離れに忍び込む。手塚は僕が部屋にいる間は、何時も僕の何処かに触れている。ただ背中をくっつけて本を読んでいることもあるし、僕がベットに置いた掌の上から、そっと自分の掌を置いていることもある。
何かまた重たい枷が増えた時は、手塚は僕の胸にぎゅっとしがみつく。首筋に冷たい頬を押し付ける。僕の頬に自分の頬を押し付ける。唇を押し付ける。

 僕の家は両親が共働きで忙しく、お手伝いさんが食事を用意して夕方には帰っていき、両親は夜遅くなってからでないと帰っては来なかった。手塚の家の夕食は早かったので、僕が自分の部屋にいるフリをして家を抜け出すのは好都合だった。
手塚の摂食障害は、誰も気がつかない分、とても深刻だった。僕は、おやつの残りや、大人達に怪しまれない程度に家の食べ物を盗み、カバンに詰め込み、手塚の家に通った。小さな子供の用意できるものだから、内容はたかが知れている。食べかけのチョコレートや、中身の何も入っていない残りご飯で作った不恰好なおにぎりであるとかそんなものだ。小さな自分の無力さと、栄養が必要な成長期に摂食障害でただでさえ弱った胃にそんなものを食べさせられ続けた手塚のことを思うと、今でも涙が出そうになる。
僕はおやつにと与えられたものを自分では食べず、いつも手塚のために取っておいた。手塚は僕が何を持ってきても文句は言わずにお礼を言って、凄い勢いで食べた。お腹はすくのだ。でも、食べ物は手塚の胃に納まっていてはくれない。
僕が手塚の部屋にたどり着く頃には、大抵手塚はもう夕食で食べたものを全て吐き戻してしまっている。僕が持ってきた食べ物を、まるで飢えた子供のような勢いで食べると、手塚がそれらを吐き戻してしまわないように、僕はずっと手塚の丸まった背中を撫で続ける。本当に気分の悪い時は、手塚は僕にしがみつく。冷たい頬を唇を、僕の顔や胸に押し付ける。そうして激しいその衝動が通り過ぎるのを待つ。僕は手塚の背中に腕を回し、いつまでもいつまでも背中を撫でる。
僕はなんとか手塚が食べたものを吐き戻してしまわないように宥めて、手塚をベットに入れて、お母さんが小さい子にするみたいに、手を繋ぎ、頭を撫で、手塚を眠らせようとする。手塚はこの屋根裏部屋では一人で上手く眠れないのだ。
でも大抵、帰らなくてはいけない時間の方が早く来てしまう。僕はとても悲しい気持ちになって、手塚にお休みの挨拶をして、お母さんがするように頬にキスをして足音を立てないように階段を下りる。
手塚が今でも、僕が部屋にいる時、僕のどこかに触れているのはその時の名残だ。手塚の摂食障害は少しずつ快方に向かい、僕が食べ物を用意しなくても何とか夕食を吐き戻さずに済むようになったけれど、それでも手塚は何か大きなストレスにぶつかるとやはり同じように食べたものを吐いた。
手塚の家族は、手塚に当たり前に一番を要求した。運動を始めれば、レギュラーとリーダーを要求され、勉強では一番を、学校では委員長や生徒会長を要求された。手塚はそれに答える能力があったけれど、いつもそのプレッシャーに晒され続けていたし、手塚自身も脅迫的なまでに一番でなければいけないと思い込んでいた。可哀相なまでに。

 僕は微笑む。何をされても微笑んでいる。手塚には温かい腕が必要なのだ。僕の腕は小さくて申し訳ないけれど。

 手塚には僕が必要なのだ。そう思っていた。
手塚は何とか、僕を通して自分を確認し、この世界と繋がっていたのだ。
だから僕は親の目を盗み、何度も家を抜け出したのだ。
確かにそれはある部分では正しい。僕達はある根底の部分で親密に結びついている。
でも僕の顔に笑顔が張り付いたように、手塚にも僕の影が染み付いている。宿命的に。
僕達はそうしてその屋根裏部屋で、沢山の時間を共有し、まるで二人で一人の人間みたいになってしまった。手塚は僕がいても損なわれ続け、僕も大きく欠けてしまった。手塚は確かに僕を求めたけれど、僕がいたせいで結局、一度も家族の期待に背くことなく答え続けた。それが手塚の希望でもあった訳だけど。
本当は多分、家族の期待に背いた方が良かったのだ。出来ないことは出来ないのだと、言うべきだったのだ。もっと早いうちに。

 弟の裕太は僕を取られたような気がしたのか、手塚のことが嫌いだった。僕が家を抜け出していることに気が付いていた裕太は、僕がやっていることを昔から間違ったことだと言い、もう手塚に会うな、と言った。

 僕達はそんなことをやっている間に、こんなに大きくなってしまった。中学三年生になった僕達の身長は、大人のそれとそんなには変わらない。

 それでも僕は君のために微笑み続ける。
少し前までは時が解決してくれるような気がしていた。僕達が大人になれば、きっと全て何でも上手く行く筈だと。
でも僕達はこんなに大きくなっても、中身は何にも変わらない。相変わらず僕達はこんなに中途半端なままだ。

 

 手塚が冷たい頬を僕の頬に押し付ける。大きくなり、力が強くなった手塚に全体重を掛けられると、手塚より一回り以上小さい僕は潰れてしまいそうだった。
でも僕は何も言わずに微笑む。そして手塚の髪を撫でる。
手塚が僕の頬に自分の頬を押し付ける。鼻を額を唇を僕の頬に押し付ける。唇が僕の唇に触れる。それは性的な意味はなく、昔から何度も行われてきたことなので、僕は何にも思わない。君は僕に触れる。体中で僕に触れる。
そうしてなんとか自分が何処にいるのか確認する。この世界と繋がっていることを確認する。
体の中にドロドロと渦巻く、吐き出したくても吐き出してはいけないもの達が、胸を、喉をこみ上げてくる衝動を僕にしがみつくことでなんとかやり過ごそうとする。
手塚が僕の目を覗き込むように見つめるので、僕は微笑む。何時ものように。
僕は誰にもこのことは言わない。手塚と初めて会った時、僕はそう約束したのだ。
僕が微笑むと、いつも手塚の顔は少しだけ緊張から開放されたようにほっとしたような顔になる。でも今日は少し違った。手塚は不安そうな目でじっと僕を見つめる。

「何か言わないの?」
手塚は突然そう言った。
「何を言うの?」
「今、キスをしたんだよ?」
僕はその言葉が何を指しているのか分からなかった。
「いつものものとは違うんだ」
「違うよ。俺は不二にキスをしたかったんだ」
手塚はとても悲しそうな目でそう言った。
「怒らないの?」
「何について怒ればいいのか分からない。怒って欲しい?」
彼は返事をしなかった。
「もう決めた」
「何を決めたの?」
「俺は不二がいればいい」
「どういうこと?」
沈黙が続く。手塚は何かを考えている時は返事をしない。ただ自分の中で答えは出ているようだった。
「僕はいるじゃないか。ずっとここに」
手塚はやっぱり返事をしなかった。

「中学を出たら家を出る」
「突然どうして?」
手塚の家族は手塚に良い大学に進むことを期待していた。
「結局、家族の期待には、最後まで答えられないと思うから」
「僕がいるから?」
僕がそう聞くと、手塚は黙り込んだ。
「僕と家族と天秤に掛けるとか、そういう考え方はまだしなくて良いんじゃないかな。まだ僕達は義務教育期間中なんだし」
僕はじっと手塚の目を見つめながら言った。
「僕は手塚がいて欲しいというだけ手塚の側にいるよ。だから、例えば大学を卒業してからだって、答えを出すのは遅くないと思う」
手塚はどれだけその重たい愛情に叩きのめされても、ずっと両親やお祖父さんに愛されたいと願っていた。だから彼は、一番であり続け、弱い部分を家族に見せることをしなかったのだ。その手塚がそんなことを言い出すのだから、色々考えて悩み、その答えを出したのだと思う。

「俺は不二がいればいい」
手塚が何を言いたいのかは分かる。手塚の家族は僕の存在を受け入れたりしない。未来永劫。人の価値観はそんなに簡単に変わらない。愛情から来るものならなおさらだ。
「僕はここにいるじゃない」
僕が笑顔でそう言っても、手塚は黙って首を振った。
「それはもっと、個別な意味で?人生のパートナーであったり、性的な関係も含めて、僕に側にいて欲しいってこと?」
「そうだと思う」
手塚はまるで人事みたいに言った。
僕は手塚とそういう関係になることを想像してみた。僕は手塚をもう一人の自分のように感じていたので、そういう風に考えたことがなかった。でもそういう関係になったとしても、そんなに悪くない感じはした。
「僕はそういう関係にならないと、僕達がずっと一緒にいられないという風には思わないんだけど。
ただそんなに早く答えを出さなくてもいいと思う。今、すぐに僕が欲しい? その…なんていうか性的な意味で」
手塚は黙って首を振った。

「君は僕にとって特別な人だよ。それは確かだ。
実際、僕は手塚とそういうことになっても、そんなに悪くはないんじゃないかと思う。
でも、僕達は何と言うか……、多分そんなに正しい方向には進んでいないと思う。僕は君の側にいた方が良いって思っていたけれど、僕が側にいたから、手塚を不幸にしたんじゃないかと最近考える。そして実際、そうだとも思う。僕達は、親密になり過ぎた。最近僕は、君を僕みたいに感じる」
手塚は黙って聞いていた。
「僕は手塚と共依存みたいな関係になるのだけは嫌だ。僕は僕がいないと駄目な手塚だから良いと思ってる訳じゃない。もっと君の力になれたらと思う。
僕達はもっと良い関係にならなければ、僕は多分、ただ君の側にいても何の力にもなれないと思う。
手塚が家族の期待に答えるのではなく、自分の人生を歩むという決心をするのは良いことだと思うよ。僕のことを抜きにしても」
僕はそう言って、手塚の頬にキスをした。彼が安らかに眠ることができるように。
「おやすみ手塚。また明日ね」
時計は帰らなければいけない時間を過ぎていた。手塚がぎゅっと僕の手を握る。
「週末には泊まりに来るからね」
僕はそう言って、手塚の髪を撫でて、足音を立てないように階段を下りた。

 

「留学することにした」
手塚は突然そう言った。
「まずは一年。出来たら二年」
「そう」
「決めたんだ」
「そう」
僕は何時ものように微笑んで頷いた。
「俺は家族とも、不二とも一度は離れなければいけないんだと思う」
「そうだね。そうかもね」
確かにその答えは僕にも最良の答えに聞こえた。僕達はあまりに親密に密接になりすぎ、魂が一つにくっついたみたいになってしまっていた。
「本当は身が切れるほど痛いし怖いよ」
「僕もだよ」
「俺は不二ともっと良い関係になるために、留学するんだ。不二がいなくても平気になるためじゃない。俺は不二がいないことが当たり前になんかならない。どれだけ時間がたっても、どれだけ距離をおいても。でも、俺は、俺を作らないといけないんだ。多分。絶対に。それを忘れないでくれよ」
「分かってるよ」
僕はそう言って笑った。
手塚が僕の頬を掌で包むようにした。僕が目を瞑ると、手塚はそのまま僕にキスをした。悪くない感じがした。
「すぐに行く訳じゃないよ。部活もあるし。中学も卒業しないといけないし」
「家族はなんて言ってる?」
「喜んでる。これからの時代は国際化だから、英語が話せるのは良いことだって」
「そう。良かったね」
「複雑な気分だけど」
手塚が苦く笑った。
「そうだろうね」
僕は何時ものように笑う。

「放って置いたら大人になって、全てが上手く行って、楽になるんだと思ってた」
手塚は突然そんなことを言った。
「僕も同じようなことを考えてたよ」
「でも考えれば考えるほど、先に進めば進むほど大変なんだ。例えば良い大学に行くとか、そういうことは何とでもなるよう

な気がするけど、一番大切なことは…」
「一番大変なことなんだね」
「どこかで大人になったら、もう不二がいなくても俺は大丈夫になれるんじゃないかと思ってた。いつかもっと社会に適応できるようになって、家族の望むような生き方が出来るような気がしてた。でもそんなことはありえない」
僕は大きなため息をつく。
「大人になるって大変だよね」
手塚も大きなため息をつく。僕はちらっと時計を見る。僕は塾の終わる時間を30分遅く家族に伝えて、手塚の部屋に毎日忍び込んでいるのだ。だから帰らなくてはいけない時間が決まっている。
「おやすみ、手塚。また明日ね」
僕はもう何百回も繰り返された同じ台詞を同じように言った。

 

続きは


「サンタ・サングレ」
赤依個人誌。
2004年8月13日発行
フルカラーカバー文庫。104P。900円。

再録文庫。完売した、「サンタ・サングレ」より、表題作を再録。
詳しくはオフライン情報で。