+僕は走る、君の元へ+

 ずるいよなぁ…と思う。
 きっと不二は俺の十倍は本を読んでいて、俺より脳みその皺が十本は多いんだと思う。
 不二と話していても、半分も理解できていないんじゃないか?と思う。聞き返せば、不二は笑顔で俺が理解できるまで説明してくれるけれど。
 不二の言っている言葉の意味がわからないなんてモーレツに損してるなぁと思う。不二の読んでいる本を俺は読んだことがない。不二が見てきた映画を俺は見たことがない。不二が面 白かったという本や映画を、頑張って読んだり見たりしたけれど、多分半分も俺はその良さが理解できてないと思う。
 頭良くならないと駄目なんだ。不二と同じ景色を見るのは。不二は俺と話す時より、手塚や乾と話している時の方が楽しそうでそういうのってずるいと思う。
 大体テニス部の三年レギュラーは皆、頭が良くて。手塚は毎回一番だし、不二と乾は毎回二番を争っているし、大石だって十番より下に落ちたことがない。
 真中くらいの成績を彷徨っているのは俺とタカさんだけで、このまま行くと俺は皆と違う高校に進むことになってしまう。あんなにテニスが出来るのに、勉強も出来るなんてずるいよ なぁ。

 でも俺は、半分も意味がわからなくても、不二の話を聞くのが好きだ。別の世界が見える気がする、違う景色が見える気がする。綺麗な唇から零れる俺には意味の分からない言葉達は 不思議な響きで、まるで魔法の言葉だ。
もっと聞いていたいと思う。いつまでも聞いていたいと思う。

 俺は中学からテニスを始めたから、小学生の頃の不二を知らない。小学生からテニスをやってる手塚も乾も大石も、小学生の時から不二と友達だったなんてずるいと思う。
不二は別にそれを理由に、部活で俺とは仲良くしてくれないってことはないけど、でもやっぱりちょっと出遅れてると思う。

 不二にはテニスでも勉強でも敵う所は何一つなくて、でも不思議なことに、そんなことはちっとも悔しくなかった。
それでも何か些細なことで、不二に勝てると嬉しかった。
毎日牛乳を飲んで、一年生の真中で不二の身長を追い抜いた時も、嬉しくて身長を計った三時間目の後のたった10分の休憩時間に、一番遠くに離れている不二の教室まで俺は走って報 告に行った。

「聞いて聞いてー!!!身体測定で身長計ったら、俺の身長、不二より一センチ高かったよ!!!」
俺が嬉しくて得意げになって言うと、不二は一度ぷっと吹き出して、その後「良かったね」と言ってくれた。そしていいこいいこと頭を撫でてくれた。
一年の時、不二と同じクラスだった手塚はそんな俺を見て呆れたような顔をしていた。手塚の身長は、もうその時すでに俺より不二よりもずっと高かった。

「ねぇねぇ不二、50メートル走何秒だった?」
俺が唯一不二に勝てるのは、スポーツテストの成績だけで、俺は体育で測定が終わる度に不二の教室に走った。
不二が困ったように笑って、スポーツテストで記録をつけた表を見せてくれる。
「あーっっ、50メートル走と垂直飛びと幅跳びは勝ったけど、踏み台昇降と1500メートルは負けたー!!!」
「あのね、英二。日本の中学校の体育の成績は5より上はないんだよ?」
そういって、不二はくすくす笑う。

 不二と何かを争いたかった訳じゃない。それでも俺は何かと不二につまらない競争を挑んだ。球拾いの時、先に100個ボールを拾った方が勝ちだとか、グラウンド整備で沢山石を拾った 方が勝ちだとか。そして俺だけが一生懸命、ボールや石を拾い、他愛もない勝負に勝ち続けた。
水飲み場まで先に走り着いた方が勝ち、先に部室まで走り着いた方が勝ち。俺はグラウンドを走り、校舎裏を走り、廊下を走り、不二に「俺の勝ちだよ」と言いに行く。不二もにっこ りと笑って、「英二の勝ちだよ」と言ってくれる。そして俺の頭を撫でてくれる。
手塚はそんな俺を見て、いつも呆れた顔をする。
「中学生にもなって頭を撫でられて嬉しいか?」
と一度聞かれた。
「もしかして嫌だった?」
それを聞いて、不二が慌てたように心配そうに聞く。
「ううん。別に嫌じゃない」
俺はぶんぶん首を振って答えた。
「癖なんだ。昔、裕太によくやってたから。裕太も中学生になってから、頭撫でると凄く怒るんだよね。昔はテストで良い点数を取ったりする度に頭撫でて~って飛んできたんだけど ね」
「ああ、なるほど。弟がいるから不二は菊丸の扱いが上手いのか」
「なんだよ、それ!!」
「不二は長男で、菊丸は確か末っ子だもんな。不二にとって菊丸は弟みたいなもんなんだな」
「弟~?俺のが不二より誕生日早い~!!!」
「そうだね。そういう所、あるかも」
「不二も納得するなぁ!!!」
俺が拳を振り回す。それを見て不二がくすくす笑う。
「じゃあ、もうやめるよ。英二の頭、撫でたりしないから」
「え~~っ……」
思わず俺の口から不満そうな声が漏れてしまう。
「やっぱり末っ子だな」
手塚が馬鹿にするように笑う。キーッッとそんな手塚を睨む。
「僕も割と頭撫でられるの好きだよ」
「ほんと?じゃ、俺、撫でてあげる~!!」
力いっぱい不二の頭を撫でる。不二は困った顔で笑う。
「不二はお前に気を使って言ったんだ。そんなことくらい気付けよ……」
手塚はため息をついて言う。
「えっ?えっ?そーなの?そーなの不二?」
「ううん。そんなことないよ、英二」
「不二、菊丸を甘やかすな。本音と建前が見抜けないままだと、実生活で損をするのはこいつだぞ」
「手塚、イジワル~!!!」
「違うよ、手塚。僕が英二の頭を撫でるのは、人に頭を撫でられるのはキモチイイコトだって思ってるからだよ。そうじゃなければ、人にしないよ」
「そうか……」
「ほらね~!!!俺が正しい~!!!手塚が間違い~!!!」
「お前はウルサイ」
「なに~?自分が間違ってるからって論点ずらすなよ~!!」
「ほぉ、菊丸でも論点なんて言葉を知ってたのか?」
「この間、不二に教えてもらったもんね~!!」
「まぁまぁ二人とも……」
不二は困った顔で笑う。手塚が腕を伸ばして、不二の髪を触る。
「あっっ!!手塚は頭撫でられるの嫌いなんだろ~!!!不二の頭に触るな~!!!」
「馬鹿。お前のせいで髪がぐしゃぐしゃになってたからそれを直しただけだ」
「も~、二人とも~」
不二がため息をつく。
「あっ、英二。もう鐘が鳴るよ?」
「あっ、マジ?ホントだ!! じゃ、またね不二」
「お前が来るとうるさいからもう来るな」
「お前の教室じゃないだろ~!!!」
「俺がこのクラスの委員長だ!!」
「英二、ほら、また先生に怒られるよ?」
困った顔で不二が笑う。俺は廊下を走って先生に怒られて、授業の開始に間に合わなくて、先生に怒られる。

 冬の体育の後、制服に着替えた分、余計に短くなった休みの時間も俺は不二のいる教室を目指して廊下を走る。
「聞いて聞いて不二~!!!俺、今日、体育でクラスでマラソン一番だったよ~!!!」
不二がちょっとびっくりしたような顔をして、そしてくすくす笑って。突然、その暖かくて柔らかい掌で俺の両頬を包むように覆った。俺の心臓は破裂しそうにドキドキする。
「頬が真っ赤だよ。今日は随分寒かったんだねぇ」
「そ、そういえば。耳が、千切れそうに痛い」
「あ、ほんとだ。耳も真っ赤だ」
不二の指が俺の耳に触れる。
「凄く冷たい。カワイソウに。あ、そうだ。これあげる」
そう言って、不二はポケットから使い捨てカイロを取り出して俺にくれた。
使い捨てカイロは熱いくらい温かかったけれど、不二の掌の方がキモチ良いと思った。

 三年生でやっと同じクラスになった時は本当に嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、手塚や乾に自慢した。手塚は不二に向かって、「菊丸を甘やかすなよ」と言い、乾は冷静な顔で、「良 かったな、菊丸」と言った後に不二に向かって、「テストで赤点を取られると補習や再テストなどで部活に影響が出るから、不二は菊丸を赤点を取らせない程度には勉強を見てやってく ださいね」と奇妙な丁寧語でお願いした。
俺がぶーっと膨れると、不二は困ったように笑って、俺の頭をよしよしと撫でた。

 もう廊下を走らなくてもいい。体育も音楽も美術もお弁当の時間も部活もずっと不二と一緒だ。
俺の方が目が良い。俺の方が肺活量がある。
「凄いね、英二」
不二はくだらないことでも毎回、嫌な顔せず微笑んで、俺にそう言ってくれる。
分かってる。これがとてもくだらないことなんだってことは。
ちらっと、不二のスポーツテストの結果を書き込む用紙を覗き込むと、今年も懸垂で一回負けてた。
「先生!!俺、もう一回!!もう一回測って!!!」
「懸垂の測定は二回までだ!!!」
体育の先生がそう怒鳴り返した。

 勉強が出来なくて、良かったなぁと思ったことはないけれど、不二に教えて貰えるのは、良かったかもしれないなぁと思う。
このまま行くと、不二と違う高校になっちゃうもんなぁ。それだけは嫌だもんなぁ……。俺は俺なりに一生懸命勉強した。

「じゃあ僕の部屋で勉強する?」
「いいの?ほんと?わーい!!!」
部活の後も不二と一緒にいられるのはとても嬉しい。
不二の部屋は片付いていて、花やサボテンが飾られていて、俺の散らかった部屋とは全く違った。不二は英語でも数学でも、なんでもとても丁寧に教えてくれる。
「じゃあ、ここまで問題やってね」
「うん」
一通り説明した後、俺に問題を与えて、不二はいつも壁にもたれて何か難しそうな本や、綺麗な写真の本に目を落とす。俺がそっちを見るとすぐに気付いて、「勉強しにきたんでしょ ?」と注意する。俺は不二に怒られたくないので、一生懸命、不二の方を見ないようにする。顔を上げて不二に顔を向けてもいいのは、問題を解いたご褒美なのだ。

「で~き~たっ!!できたよっ!!不二っ!!」
問題を解いて、不二が凭れて座っている壁の方に目を向けると、不二は壁に凭れた体勢のまま、目を瞑って眠ってしまっていた。
本当に眠ってしまっているのか、確かめようとそーっと近づく。顔の前で手を振っても、何にも反応しない。本当に眠ってしまっているようだ。
改めてこうして見ると、睫が長いな~。可愛い寝顔だな~。ほっぺたも唇も柔らかそうだ。
あ~。キスしたいな~? キスしたい? なんで? なんで俺が不二にキスしたい訳?
俺の頭はぐるぐる混乱する。不二はすやすや眠っている。そう簡単には目覚めそうにない。
意味もなく辺りを見回す。不二の家には今、俺と不二しかいないはずだ。
こんなチャンス、もう二度とないかもしれない。俺はぐるぐる頭を混乱させたまま、それでもその欲求に逆らえずそろそろと唇を近づける。
あとちょっとで触れるという瞬間に、不二はぱちっと目を開ける。不自然に近づいたままのその体制で、気まずい沈黙が流れる。
どうしようもないので、伸ばしていた首を引っ込める。そしてそのまま正座する。
「あーっ。起きちゃった~」
俺は無意識に冗談にしようと冗談っぽく言う。
「好きだって言う前に、キスをしようとするのは反則だよ?」
不二はちょっと怒ったようにそう言った。
「さ、先に好きだって言えばいいの……?」
「ち、違うよ。英二に好きだって言ってもらいたいんじゃなくて、僕が言っているのは原則の話」
「原則?」
「だから、一般的にとか、基本的にってこと」
俺の顔も多分真っ赤だろうけど、不二の顔も相当真っ赤になっていた。
「そっか……勉強になった……」
「そうだよ。これからは注意した方がいいよ……。そういうことは、相手の意思を確認しないと、下手すると犯罪になっちゃうんだからね」
不二が赤い顔でぶつぶつ呟く。
「もう勉強教えてあげないよ?」
「えっ?やだ!!絶対やだ~!!!ごめんね!!不二~!!!」
俺はぺこぺこ謝る。土下座して謝る。不二が呆れてもう良いよって言うまで。

 分からないことがある時は今まで何でも不二に聞いていたけど、さすがに今回は聞けないのだということだけは俺にも分かる。やっばりこういうことを聞くなら、ペアを組んでいる大 石が一番だと思う。手塚は多分馬鹿にして答えてくれない。乾に聞くと話が大きくなる可能性がある。タカさんはそーいう話に疎いし。

「あのさ、大石。キスしたいなぁって思うんだったら、やっぱりその相手のことが好きなんだってことだと思う?」
大石が飲んでいたスポーツドリンクを吹きだす。
「そ、それは……そういうことだと思うよ。一般的に」
「そうか。一般的にそうなのかぁ……」
「それってさ……不二のこと?」
「えっ、な、なんで分かるの?」
「っていうか、俺、ずっと前から、英二は不二のこと好きなんだと思ってた。皆もそう思ってると思うよ……」
大石が困ったような笑顔で言う。
「そっかぁ……そう見えるのかぁ………。じゃあやっぱりそうなのかなぁ……」
「でも好きだっていうのってさ、自発的に思うものだとも思うけど。その自覚はないのか?」
「うーん……」
「じゃあさ、そういう時はさ物事を逆に考えてみればいいんだよ」
「逆に?」
「例えばさ、仮に手塚が不二のことを好きで、不二が手塚のことを好きだとして、二人で遊んでばかりで英二のこと不二が構ってくれなくなったら、英二はどう思うか?とかさ」
「えっ?ヤダ!!そんなのヤダ!!!」
大石がおかしそうに笑う。
「でもさ、よ~く考えろよ。お前がどんなに不二のことが好きでも、不二にも選ぶ権利がある。お前が好きだって言ったがために、無くしてしまうものもあるかもしれない」
「無くしてしまうもの?」
「不二はもう今までみたいに、英二に接してくれないかもしれないってこと」
「そ……そうかぁ………」
「副部長としては、そういうややこしいことは、全国大会が終わってからにして貰いたいものだけどなあ……。今の所取り立てて急ぐ必要がある訳じゃないし、目に見えてお前のライバ ルがいる訳じゃないし。不二に告白するのはさ、全国大会で優勝してからでも良いんじゃないのか?
英二はさ、今のままでも悪くないんだろう?それ以上を望むのは、それこそもうちょっと後でも良いんじゃないかな。なんと言っても、俺達、中学生だし」
「そっかぁ……」
「そうだよ」
「じゃあ決めた!!俺、全国大会終わったら、不二に好きだって言う!!俺がフラレたらさ、その時は大石、慰めてよね!!」
俺が掌をグーで突き出すと、大石がそれにグーで返してくれる。
「あ、大石は勿論、俺を応援してよね?」
「え~?あ~、それはなぁ……」
「俺達ペアでしょ?俺の応援するのは当然じゃーん!!副部長として部長を応援しないといけないのかもしれないけど、こーいう時は俺を応援するのが当然っしょ!!」
俺がピースして返すと、大石はため息をついて、分かったよとピースする。

 中学三年生は忙しい。部活は最後の年だし、受験だってある。レンアイだって疎かに出来ない。
でも俺は欲張りだから、どれも諦めない。全部。全部手に入れてやる!!
とにかく全国大会が終わるまでは。全国大会が終わるまでは俺は相も変わらず走り続ける。
きっとその向こうに、君がいる。