+マジック・ルーム+


 その日も乾は、部活の帰り道、当たり前のようにスーパーに立ち寄る。
 僕はそれが日常のことになってしまって、当然のように乾の買い物に付き合う。(別に急いでいる訳じゃないしね。)
 乾が果物売り場で立ち止まる。じっと贈答品のびわを見ている。
「今度はびわでも是非試してみたい……」
「また新商品を作るの?」
 僕は呆れたように言う。
 乾は次から次へと、果物を変えては、サワードリンク作りに励んでいた。勿論、核家族の乾の家でそんなにたくさん消費できるはずがないので、需要と供給のバランスはとっくの昔に崩れていた。
「今日はアメリカンチェリーが安い……試して見よう」
「お父さんとお母さん、そんなにたくさん作って文句言わないの?」
「うちの親は、興味のあることはとことんやれと言っている」
「良いご両親だね」
 僕はしみじみとそう答える。 

 

 その事件は部活後の部室で起きた。

「あ、ジュース貰いっっ!!!」
乾がスポーツカバンから出して、机に置いたジュースのペットボトルを見つけた同じ部活の一年生の一人が、勢い良くそれをとりあげる。
「あ…それは……」
「げーっっ!!!げほげほげほっ!!!な、なんだこれ!!!!」
乾が止めるより早くキャップを開けて、勢い良く飲んでしまった生徒が苦しそうに派手に咳き込む。
「す、すっぺーっっっ!!!まずーっっっ!!!なんだこれ!!!」
「それは原液で飲むものじゃない。薄めて飲むサワードリンクだ」
「サワードリンク?」
「簡単に言うと、酢だ」
「酢~っっっ?」
「果物につけてある。ちなみにそれはオレンジ」
乾が冷静な口調で説明する。
ペットボトルは、レモンウォーターのものだった。ぱっと見、色では判別かつかない。濃厚な酢を一気に飲んでしまったその生徒は、何時までもげほげほと咳き込んでいた。
「酸味と糖分。疲れを取るにはもってこいだ。それ、やろうか?」
「要らねーよ!!!」
「えーっっ?どんな味?」
好奇心に誘われた回りの男子生徒達が、次々と口をつけ、マズイ!!と派手に叫んだり、咳き込んだりしている。
「乾、こんなもの飲むのか?気がしれねぇっ!!!」
「だから、それは薄めないと飲めない……」
乾がぶつぶつと呟くが誰も聞いていない。

 乾と言えば、まずい酢。この印象は、この事件がきっかけでみんなに強烈に植えつけられた。

「不二にやるためにもってきたんだが」
「えーっっ?不二、こんなの飲むのか?」
「薄めて飲めばさっぱりしてて美味しいよ」
乾の作る果実酢は、僕の家族にとても好評だった。
薄めてドリンクとして飲んだり、塩コショウで味付けして、ドレッシングにしたり、料理の隠し味に使ったりと、我が家で大活躍していた。
また貰ってきて、と頼まれていたので、乾にわざわざ持ってきてもらったのだ。
「こんなのが美味いなんて、不二の味覚絶対ヘン!!」
「異常!!!」
「カルピスだって原液のまま飲んだらマズイに決まってるじゃん!!!」
僕はもっともなことを言ったのに、誰も聞いてくれなかった。

 僕の味覚は異常。そういう間違った印象も、その時、みんなに植え付けられた。

 それから試合の時とかに、乾はお手製サワードリンクをちゃんと薄めて冷やして、大きな魔法瓶に入れて持ってきて、みんなに配るようになった。
意外においしいとか、まずいとか、感想は賛否両論だった。
主に試合に負けた時などの、罰ゲームのイッキ用として使われ、なんだかんだ言って帰りにはいつも魔法瓶は空になった。
僕が料理に使うと美味しいよ、と言ったら、家族に頼まれたとかでこっそり、貰いにくる奴もいた。
マズイだのなんだの言っても、試合の度に、大きな魔法瓶を抱えてやってくる乾に、「今日(の果物)は何?」と誰かが聞いていたから、みんな、楽しみにしてたんじゃないかと思う。

 

 僕は乾の誕生日に、いつもお世話になっているからとインターネット通販サイトから、地元直送で「びわ(1キロ)と高級有機無農薬純米酢を送った。
そのびわと酢は一週間後、ジャムとサワードリンクになって、僕の所に戻ってきた。 

 

 

「不二の喜ぶものを作った」
「また?」
僕は慣れっこになってしまって、ため息をつきながら言った。
僕はついこの間、僕の喜ぶものだと、ロードランナーの金が、テニスボールになったゲームをやらされた。
「今度は絶対不二が喜ぶものだ」
乾が力説する。僕はどーたが、と思う。
「今週の土曜の12時頃、俺の家まで来てくれ」
「分かった」
僕はやれやれと思いながら頷く。

 

 乾が僕が絶対喜ぶと言って、見せたのはお菓子の缶だった。
「なに?また日光写真?」
「近いけど違う」
乾の家の狭い庭に連れて行かれる。庭に椅子を置いて、そこにお菓子の箱を置く。
「いい天気だから、四分くらいにしておくか……」
乾が何かぶつぶつ呟く。
「良い天気だね」
「そーだな」
乾がストップウォッチを見つめたまま、適当に返事をする。
日向ぼっこは気持ち良い。
「よし終了」
乾がガムテープみたいなものをお菓子の缶にくっつけてから立ち上がる。
「で、結局なんだったの?」
「ついてくれば分かる」
そう言って、家の中に戻る。乾についていくと黒いカーテンが目に入る。
「なにこれ?」
「浴室を暗室に改造した」
「暗室?そんなことしちゃって良いの?」
「現像が終わるまでの間だけどな。濡れるから靴下脱いで」
濡れる?僕は疑問に思いながらも、言われるままに靴下を脱いで、カーテンをめくる。
赤いランプがついている。バットが三つ、お風呂の蓋の上に用意されていた。
「左から順に、現像液、停止液、定着液。下の洗面器は水洗用」
「すごーいっっ!!!」
小さいけれど、そこはちゃんと暗室だった。
「さぁ、入って入って」
腕をひっぱられて、狭い浴室に入る。重しを長いカーテンの裾に乗せて光が入らないようにする。
「よし良いな」
乾が箱を開ける。一枚の厚い普通の写真よりちょっと大きい紙が出てくる。
乾がそれを一番左のバットの液体の中に竹のピンセットを使って沈める。
「あっっ!!なんか絵が出てきた!!!これなに?」
「ピンホール写真」
「ピンホール写真?」
「これはまだネガだ。ほら、黒白が反転してるだろう?」
「ほんとだー」
その写真には乾の庭にある小さな木と塀が移っていたが、白黒が逆転している。
「これを現像して定着させて乾かして、また印画紙に重ねて、光を当てることで、ポジが出来る」
「ポジ?」
「反転してない写真が完成する」
「へーっっっ!!!すごーいっ!!!」
写真好きの僕はワクワクする。
「現像液に約二分、停止液30秒から一分、定着液が十分くらい」
「へー。結構時間掛かるんだね。なんかすっぱい匂いがするね」
「停止液の匂いだな」
「真ん中のこれ?」
「停止液は、酢酸を水で薄めたものだ。つまり、酢だ」
乾が嬉しそうに言う。また酢か……。
「化学反応を酢酸が止める」
「ふーん」
定着液に浸している間、暇なので僕は乾の手作り暗室を見る。壁も天井から黒い布で覆われている。
「お風呂、こんな風にしちゃって、お母さん怒らない?」
「帰ってくる前に片付ければ問題ない」
「これってさ、普通の写真の現像にも使える?」
「引き伸ばし機がないからなぁ。それに現像液が白黒印画紙用だし」
「そっか。普通の写真は焼けないのか。でも、これ面白いね。でもどうして写るの?」
「あー、説明すると長いんだが……。そうだな。後で良いモノを見せてやる。それを見た方が口で説明するより早い」
「イイモノ?」
「よし、定着も大体いいだろう。後は水洗」
洗面器に写真を入れ、水を少し出しっぱなしにした状態にして、カーテンを開ける。
すぐに洗面器の水があふれて足が濡れる。足が濡れるってこれのことか。
「冷たっっ」
「これで、また15分くらい放置」
「もう光当たっても平気なの?」
「定着が終わってればもう大丈夫」
凄くワクワクする。乾の実験を見ていても、それなりに楽しいと思うけれど、こんなに楽しいのは初めてだ。

  水洗が終わった印画紙を、タオルで軽く拭いて、新聞紙の上に置いて乾かす。
「すごいねー。結構くっきり写ってるー。でもどーしてー?どうしてこんな風に写るの?」
「それは後のお楽しみだ」
乾がにやにや笑う。

 

 ネガ写真が乾く。乾が今度は、小さな額縁を持ってくる。
「今度はこれを使う」
「ふーん」
もう一度暗室に入り、額縁をあけ、もう一枚新しい印画紙をネガ写真と重ねて、額にセットする。
「これでOK」
「どーするの?」
「こーする」
乾がぴったりと額をお腹につけるようにして、暗室のカーテンをあけて外に出る。
「せーの、いちにぃさんしぃごぉろくななはちきゅうじゅう!!!」
額をお腹からはずして、上に向けて、十数えてまたお腹に額をくっつける。
「暗室に戻って」
「うん」
慌てて暗室に戻る。
額を抱えている乾の代わりに、カーテンに重しを置いて、光漏れをチェックする。
「大丈夫だな?」
「うん。大丈夫」
ふーっと乾が大きくため息をついて、お腹から額を外す。印画紙を取り出し、現像液に入れる。
「あっ、画像が出てきた」
「これがポジだ」
「おもしろーい!!」
「ネガ写真があるから、焼き増し出来るから、後でもう一枚焼こう」
「僕にくれるの?」
「記念に。今度はちゃんと定着してあるから消えない」
「ありがと~。今度は僕にやらせて!!!」

 

 結局、写真を二枚焼きおわるまでで、僕が乾の家にお邪魔してから、一時間半以上が経っていた。
新聞紙の上に二枚の濡れた写真が並ぶ。
なんだか嬉しくて、僕はにやにや笑ってしまう。
「あ、そうだ。さっきのお菓子の缶、見せてもらっても良い?」
「どうぞ」
お菓子の缶は何の変哲もない、どこにでもあるお菓子の缶だったけれど、真ん中に何かがひっついていた。めくってみると小さな穴が開いていた。
「それがピンホール。針穴。針穴写真」
「こんな穴を開けるだけで写真が写るの?不思議」
「あとで、分かりやすいように実験を見せてやる。その前に昼ご飯にしよう」
そんな時間だっけ?僕は楽しくて楽しくて、お腹が空くのも忘れていた。
「不二、辛いものと納豆は平気か?」
「好きだよ」
「今、キムチブームなんだ」
乾の眼鏡がキラッと光る。またきっとあるある辞典の特集を見たんだな………。
電子レンジでご飯を温める。フライパンで何かを炒める。凄いキムチの匂いがする。

 どんっと、僕が座るテーブルの前に丼が置かれる。
「なにこれ………」
見たことのない物体だ。
「豚キムチ+納豆丼」
「キムチって炒めて美味しいの?」
僕の家ではキムチは出てこない。考えてみると、僕はお店でしかキムチを食べたことがなかった。漬物のキムチしか知らない。
「不二の家は金持ちだから。庶民の食い物は食べないもんな。
まぁ、騙されたと思って食べてみなって。キムチは乳酸菌が多いし、納豆は血液をサラサラにするんだ。キムチ納豆は脳血栓に効果的だ。豚と一緒に食べて疲労回復にも万全」
………スポーツをやってる健康な中学生の血が、そんなにドロドロだったりするだろうか……、と僕は根源的なことを思った。
でも一口食べてみる。
「あ、美味しい!!!」
「だろ?」
乾は得意げだ。
「でもちょっと辛いね」
「そういう時は、牛乳と一緒に食べれば良い」
「もう、牛乳は良いっつーの!!!」
「豚キムチ丼に冷えた牛乳が合うんだ」
頼みもしないのに、牛乳の瓶がドンと目の前に置かれる。
仕方ないから飲む。意外に美味しかった。ちょっと悔しい………。

 

「で、実験は?」
「ああ、そういえばそうだったな。その前に暗室を片付けよう」
「あ、そうだね。片付けなきゃ」
黒いカーテンを外す。現像液を別の瓶に移す。バットの底に砂のようなものがへばりついていた。
「これなに?」
「ああ、銀だ。銀板写真というだろう?」
「なるほどね~」
言葉にはちゃんと意味がある。

 

 器具を洗って、新聞紙を広げて干す。黒いカーテンを畳み、乾が二階に上がっていくのについていく。
入ったことがなかった和室の窓に黒いカーテンを掛ける。
「何やってるの?」
「何って実験だよ。実験。多分、あっと驚くものが見られるぞ」
窓の向かいのふすまにも黒いカーテンを掛ける。
電気を何度も消して、光が漏れている所を何度も確認する。長いカーテンの垂れた部分に、本を重しにして光が漏れないようにする。
「真っ暗になったな。これでよし」
「何するの?」
「カーテンに穴を開ける」
「え?開けちゃっていいの?」
「後で縫うから良い」
乾がカーテンに小さな穴を開ける。電気を消す。もう一度つける。
「もうちょっと穴が大きい方がいいかな」
「さっきから、何やってるの?」
散々じらされて、痺れを切らして僕は聞く。
「すぐに分かる」
乾はそう言って、また電気を消す。
「不二、後ろを見てみろ」
「え?なに?」
僕は、乾の手元ばかりを見ていた。振り向くと、ふすま側に掛けた黒いカーテンに、外の景色が上下逆に写ってる。
「え?なにこれ?凄い!!!」
「これがカメラの仕組みだ」
「すごーい!!! まるで魔法みたい!!!」
僕は感動して、そう叫ぶ。
「上下逆転してるね」
「光が交差するからな。よく見ろ。右左も逆転してるだろ?」
「あ、ほんとだ。すっごく不思議~!!」
「とまぁ、こーいう仕組みで、ピンホールカメラで印画紙に画像が映るわけだ」
「なるほどねー」
なるほどねー、と答えながらも、わかんないことが多かった。
でも初めて、乾が実験に夢中になる気持ちが分かった気がする。
こーいう発見って面白い!!!
「電気つけるぞ?」
「あ、待って!!!もーちょっと見てちゃ駄目?」
「良いけど………」
僕と乾は窓側の壁に凭れて座る。
「あ、そうだ。僕もあれ、作ってみたい!!ピンホールカメラ!!作り方教えて」
「ああ、また今度な」
「材料、お菓子の缶で良いの?家で探してくるね」
ああ、ワクワク、ドキドキする。

 僕と乾はその日、日が暮れるまで、その薄暗い部屋で話をしながら、不思議な映像を眺めていた。



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