+anywhere+

「たまにさ、自分が何処にいるんだか分からなくなるような時ってない?」
 部活のない休みの土曜日の午後は、やることがないので、菊丸は不二の家に遊びにくる。(月に二回の週休二日が実施されるようになり、その日は学校指導上の問題で、部活も休みにな る。全国的に毎週休二日が実施される学校が増えつつあるが、不二と英二の通う私立の学校は、今の所、各週で週休二日を実施している。)
 不二の家にはテレビゲームはないし、遊びにきても不二は本に向かっていたりして、英二を構ってくれるという訳でもない。それでも、ただ不二の部屋にいるだけでも、英二はその何 にも追われることのない時間が好きだった。

 不二は本に向かったまま、たまに独り言のように英二に声を掛ける。英二は、不二が返事を求めていないことが分っているので、返事をしない。
「月並みだけど、自分が分からないって奴?あー、何やってるんだろう~?っていうかどこに行こうとしてるんだろう~?僕ってなんなんだろう~?ってたまに思うんだよね。
われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処に行くのか。なんてね。
誰もが考えることなんだろうけど。南の島にでも行けば分るかな?」
不二が皮肉っぽくくすくす笑う。不二のそういうアイロニカルな所を、疎ましく思う人間もいるが、英二は不二が自分自身に対して皮肉を言っているということを知っているので、嫌 な感じはしない。ただ不二が苦しんでいることが分かるのでとにかくカワイソウに、と思う。
不二ほど本を読んでいない英二には、不二の言っている言葉の意味は半分も分らない。でも不二が、独り言のように何かを話す時、不二が英二に話の細かいディティールを伝えたい訳で はないことは分かっているので、分らない単語があっても聞き返すことはしない。ただふんふんと頷いて聞く。不二の話し方、話す内容をいささかペダンチックに感じて疎ましく思う同 級生もいるが、英二は不二が「言葉を選ぼうとする」と、いささか普通の中学生があまり使わないタイプの言葉が選ばれてしまうのだということを知っている。
こういう状態になっている時の不二は、とにかく吐き出させなくてはいけないのだ、ということを英二は直感で分かっている。重たいんだろうなぁ、ということは分る。何が重たいの かまでは分からないけれど。
英二は不二が自分を守るために、色々な本を読み、色々なことを考えているのだということを知っている。英二は不二が何を考えているのか分らないし、不二を知ろうとすればするほ ど、深まる謎がいっぱいあって、次から次へと知らない不二が顔を出して、不二がどういう人間なのか、100パーセント理解しているとはとても言えないけれど、でも英二は自分が「肝心 なこと」は分かっているという自信がある。
例えば、重たいんだなぁ…、楽にしてあげたいなぁ…とか。胸に何か詰まってるんだなぁ…吐き出させてあげないといけないなぁ…とかそういうことだ。そういうことが重要なのだ、 ということを英二は本能で知っている。
「自己同一性障害とかそーいう奴かなぁ。ここにいるのが嫌だから遠くに行きたいと自分が願ってるのか、それとも何処にいるのか分からないから何処かに自分が流されて行っちゃう かもしれないな、ということをおびえているのか、そんなことも分からない。とにかく地に足がついていなくて、自分がフラフラしていることだけは分かるんだ。
これって、思春期特有のものなのかな。時間が経てば、こんなこと考えなくなったり、何にも思わなくなったりするんだろうか?
それとも、その頃には何処かに行っちゃってるのかな。何処か、遠くへ」
不二は本から顔を上げないまま、話を続ける。英二は、いつ不二が本から顔をあげても良いように、不二を見つめて感じよく笑って、頷いて聞く。たまに相槌を打つ。不二が話しを続 ける。英二には半分も意味のわからない話。英二は不二の言葉が枯れるまで、うんうんと頷いて聞く。

 話したいことがなくなったのか、不二の話は唐突に終わる。不二が本のページをめくる微かな音が静かな部屋に響く。

「大丈夫だよ」
「…………大丈夫かな」
「俺が探すから」
その言葉で不二がやっと顔をあげる。
「不二が何処かに行っちゃっても、俺がちゃんと探しに行くから」
「……………」
不二がちょっと驚いたように、じっと英二の顔を見つめる。そういう顔をする時の不二は、年相応に幼く見える。
「……遠くかもよ?」
「うん。良いよ。遠くまで走れるように体鍛えておくから」
「……遠くって、本当に遠くだよ?
遠くってね。行くことは出来るけど、自分で帰っては来れない場所のことを言うんだって。本で読んだ。英二も迷子になっちゃって、帰って来れなくなるかもよ」
「大丈夫。パン屑落としながら走るから」
「走るの?歩くんじゃなくて」
不二がくすくす笑う。
「不二を待たせちゃ悪いから。きっと歩いていられないと思う。フルマラソン走れるように頑張るよ」
英二が明るくそういうと、不二がおかしそうに笑う。
「どこかに飛んでっちゃうかもよ?」
「じゃあ飛べるように練習しとく」
「空も飛べるはず?」
不二が皮肉っぽくそう言って笑う。不二は英二の言うことを信じていない。真に受けないようにしているのだ。英二が信用できないのではなくて、不二は英二からそう言われる価値が 自分にあるとは思えない。だから英二は繰り返し何度も不二に言わなくてはいけない。そうして自分が不二に好意を寄せていることを伝えなくてはいけない。
「うん。だから、大丈夫だよ。不二が何処かに行っちゃっても、絶対俺が見つけてみせるから。連れて帰ってあげるから」
「帰りたくないって言ったら?」
「じゃあ、俺も一緒にいる」
「簡単に言うよね」
笑顔で胸を張って言い切る英二に、苦笑しながら不二がそう答える。
「だって、不二と一緒にいたいんだもん」
英二が胸を張ってそう答えると、不二が慌てたように本に顔を向け、本で顔を隠すようにする。不二は意外と照れ屋で、すぐに顔が耳まで赤くなる。不二はそれを気にしていて、英二 はそこが不二のカワイラシイ所だと思っている。
「ほんと、英二ってよく分からないよ」
不二が本に顔を向けたまま、愚痴を言うようにぶつぶつ呟く。
「そんな簡単に分かったら、きっと面白くないと思うよ。俺、不二に飽きられちゃったら困る」
ウッと不二がうめく。
「君と話してると頭がおかしくなる」
「俺は不二と話してると、頭良くなったような気がするよ」
「それは良かったね」
「だからこれからもヨロシク」
英二がにこにこ笑う。不二が毒気を抜かれて、大きくため息をつく。
「不二が遠くに行っちゃって、帰ってこれなくなっても、俺が絶対探しに行ってあげるからね」
「……………しつこい」
不二が顔を赤くして、不機嫌な顔で視線を反らす。本に向かって、音を立ててページをめくっているけど、きっと頭には文章なんか入っていない。カワイソウだから英二は、そんな不 二をあまり見ないようにする。
静かな部屋に、不二がいつも聞いているのだろうシックな音楽が読書の邪魔にならない適度な音量で流れている。
日が暮れるまで時間はまだまだあって、取り立ててやることはないけれど、時間には追われない。
英二は幸福な気持ちになる。きっと大丈夫だ、と思う。